上海市静安区延安中路1000号
失われた愛儷園
Aili Garden · Hardoon’s Garden
ハードゥーン夫妻の庭園、その門の向こうへ
今の南京西路沿いには、亭や池、住まいが連なる私庭がありました。庭園の古写真、博物館所蔵の1912年の集合写真、現在の跡地を通じて、ハードゥーンと羅迦陵の世界をたどります。
古写真から歴史をたどる
古写真・撮影年の記載なし
池、橋、亭が織りなす旧愛儷園。原掲載は上海図書館と記載。現存庭園の写真ではありません。
Shanghai Library / Historic Shanghai · 画像出典 · 原掲載のクレジットと権利表記
庭園の概要
- 造園年代
- 1903年冬〜1909年秋初期の園記による考証。異説あり
- 造園設計
- 黄宗仰・ウームー山僧造園を主導
- 空間の特徴
- 中国式庭園と多様な影響亭・池・橋・住居
- 当初の用途
- 夫妻の私庭と住まい教育・文化・慈善活動の場でもあった
- 現在の状態
- 庭園は現存せず・上海展覧中心の敷地改称や庭園建築の修復ではない
- 現在の住所
- 上海市静安区延安中路1000号南京西路・銅仁路周辺
この家に暮らした人物
生涯のあらまし
ハードゥーン(1851〜1931年)はバグダッドのユダヤ人家庭に生まれ、上海で商業の仕事から不動産業へ進みました。上海生まれの羅迦陵(1864〜1941年、英語名リザ・ハードゥーン)は仏教徒でした。移民と地元の暮らしが重なる家庭であり、羅迦陵も園主、支援者として読むべき人物です。[4] [6] [2]
主な功績と影響
夫妻は教育、慈善、宗教出版を支えました。1914年には羅迦陵の支援で月霞法師が園内に華厳大学を創設。後に移転し、園内では倉聖明智大学などの教育活動が続きました。富、租界社会、文化支援が交わる歴史は、夫婦の愛情物語だけでは語れません。[4] [6] [2]
庭園の始まり
なぜここに建てられたのか
愛儷園はハードゥーン・ガーデンとも呼ばれ、夫妻の住まいでした。今の展覧中心の塔からいったん目を離すと、古写真にある低層の家、池、橋に、異なる都市のスケールが見えてきます。暮らし、学び、来客を迎える庭園でした。[2]
造園を主導したのは僧侶の黄宗仰です。研究者の李軍は「愛儷園序」と初期の写真帖を読み直し、1903年冬から1909年秋を営造期と考証しました。1904年着工、1910年完成という記録もありますが、本頁では初期の園記に基づく年代を用います。[1]
古写真で庭園をたどる
足を止めて見たい三つの細部
水面と橋、切り取られる景色
冒頭の写真で橋から水上の亭へ、さらに樹木と遠くの屋根へ視線を進めてください。近景、中景、遠景が重なります。庭は歩いて見るもの。一枚の写真は立ち止まった地点であり、全体図ではありません。[2]
園壁の内側にある住まい
園壁や家の写真には門の装飾、反り返る軒、木造の細部が残ります。ここは鑑賞のためだけでなく、家族や使用人が暮らし働く場所でもありました。軒や欄干から周囲の木々へ目を移すと、暮らしと鑑賞の場が重なる様子が見えてきます。[2]
石舫、水辺の集いの場
石舫の欄干沿いに立つ人々から大きさを読み取れます。船のようですが、庭園の建築です。現在の展覧中心前の広場と比べると、私庭から展示施設へという土地の変化が見えてきます。[2]
古写真・撮影年の記載なし
石舫での Barr 夫妻と同行者。原掲載は Betty Barr 提供と記し、撮影年は不明です。
Courtesy Betty Barr / Historic Shanghai · 画像出典 · 原掲載のクレジットと権利表記
一つの土地の変遷
写真のあいだに広がる歴史
写真には撮影年代または出版年代を明記し、確かな画像がない時期は文章で歴史を伝えます。
- 1903–1909
造園と完成
黄宗仰が造園を主導。1903年冬〜1909年秋という考証を採用します。古写真の撮影年は不明で、完成当日の記録としては扱いません。[1]
古写真・撮影年の記載なし
池の亭と欄干。水面に屋根の輪郭が映っています。
© Philip MacGregor / Historic Shanghai · 画像出典 · 原掲載のクレジットと権利表記
- 1912 · 04 · 06
写真に残る孫文と来客
所蔵機関は、1912年4月6日に趙鳳昌が孫文と臨時政府の要人を招いた際の集合写真と記録しています。楊小仏・楊澄の寄贈で、宋慶齢陵園管理処が原品を所蔵しています。[5]
1912年4月6日
趙鳳昌が孫文と臨時政府要人を招いた際の集合写真。原品の折り目や縁も残しています。
宋慶齢陵園管理処蔵・楊小仏、楊澄寄贈 · 画像出典 · 原掲載のクレジットと権利表記
- 1914
園内の学校
羅迦陵の支援で月霞法師が仏教学校の華厳大学を創設しました。後に移転し、園内では別の教育活動が続きます。庭園は住まいであり、知識を伝える場でもありました。[4]
- 1931
- 1941年以降
- 1954–1955
跡地に建つ新しい施設
公式年表では1954年5月に旧園地で起工式、1955年3月に完成した中ソ友好大厦で最初の展覧会が開かれました。庭園の改称ではなく、新たな建設です。[7]
- 1968 / 1984
現在の上海展覧中心へ
1968年に上海展覧館へ改称し、1984年に上海展覧中心を組織しました。南京西路や銅仁路を歩いてから古写真を見ると、失われた園の広がりを想像できます。[7]
現代の写真・撮影年の記載なし
跡地の上海展覧中心。後の建物を写した現代写真で、庭園の遺構や1955年竣工時の写真ではありません。
Historic Shanghai · 画像出典 · 原掲載のクレジットと権利表記
現在と見学
今、跡地で何が見える?
原庭園は現存しません。今訪ねられるのは跡地の上海展覧中心で、庭園時代の建物ではありません。展示、入口、公開状況は催事で変わるため、出発前に公式案内をご確認ください。[7] [8]
- 住所
- 上海市静安区延安中路1000号 上海展览中心
- 跡地の見方
- 南京西路と銅仁路から街区を観察。入園できるハードゥーン庭園は現存しません。
資料確認:2026-10-29 · 公開と催事は場館の案内をご確認ください。
上海と世界
バグダッドから上海へ、庭園から展示の場へ
一つの住所がユダヤ人の移住、中国の庭園文化と仏教教育、後の中ソ協力を結びます。銅仁路から外灘のサッスーン家の物語へ。国際的なつながりは大建築だけでなく、私生活や失われた空間にも残ります。[6] [7] [8]
園壁と園主、さらに古写真を見る
古写真・撮影年の記載なし
園壁の装飾門と開口部。原画像の Philip MacGregor 表記を保持。
© Philip MacGregor / Historic Shanghai · 画像出典 · 原掲載のクレジットと権利表記
古写真・撮影年の記載なし
園内の中国式家屋の軒と木造の立面。正確な建物名は原文にありません。
© Philip MacGregor / Historic Shanghai · 画像出典 · 原掲載のクレジットと権利表記
古写真・撮影年の記載なし
ハードゥーンと羅迦陵の肖像。撮影者と撮影日は原文で個別に示されていません。
Historic Shanghai · 画像出典 · 原掲載のクレジットと権利表記
資料と画像の出典
以下の資料をもとに再構成しました。Wikipediaを翻案・要約・翻訳した本文は、CC BY-SA 4.0 で提供します。元記事の執筆者は編集履歴をご覧ください。写真の利用条件は各画像の下に記載しています。
- 李軍・近代上海名園愛儷園考辨 ↗
初期の園記と写真から造園年代を考証。
- Historic Shanghai · Inside Hardoon’s Garden ↗
家族写真と子孫の回想。原掲載のクレジットを残し、提供者を撮影者とは断定しません。
- Hugues Martin · Silas Hardoon’s Garden ↗
静安寺路と跡地の背景。火災や展覧中心の年はそのまま転記していません。
- ウィキペディア・愛儷園 ↗
名称と教育史を他資料と照合。戦争開始年の誤記は引き継いでいません。
- 上海市孫中山宋慶齢文物管理委員会・1912年の所蔵写真 ↗
日付・出来事・所蔵を確認。宋慶齢陵園管理処蔵、楊小仏・楊澄寄贈。
- Shanghai / SHINE · Memory of Aili Garden ↗
園主、教育・出版活動、跡地の変遷に関する資料。
- 上海展覧中心・公式年表 ↗
1954年5月起工、1955年3月初展示、1968年と1984年の変更を確認。
- 上海市政府・銅仁路散策 ↗
現在の住所と銅仁路の関係。2024年の開館時間を恒久的な案内にはしません。
画像処理と年代について
画像は各写真の下に記載したアーカイブまたは画像出典ページによります。サイズ調整とWebP圧縮のみを行い、元の縦横比を保っています。着色や描き足しはせず、古写真の粒子、ぼけ、スキャン跡も残しています。
年代不明の写真に隣接する出来事の年を付けていません。集合写真は所蔵機関の1912年という記録に従い、現代写真を1955年の記録とは扱いません。
透かし、縁、縦横比を保持。所蔵写真は4928×3264から2400×1590へ縮小し、他の写真は拡大補間していません。